昭和五十一年十二月六日 朝のご理解
                            松永享四郎

ご理解第二節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るのものは神徳じゃ。
神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」


 今日はあのう、大体、このご神訓と云うところがありますね、教典の、ご神訓の、この神と云う字を一字頂いたんです、そして、次のこの白紙のところ、ご理解台紙の白紙のところ、ここを頂いたんです。
 神と云う字は、示すに申すと書いて神、ね、活字にしますと、示し申すと書いて神と読む、それから、白紙と云うところは、やっぱり白紙です、それで、これは、余りタイトルが無いから、今日は無理にこのご理解を頂いたんですけどね、どうぞそのつもりで、どうぞ聞いて頂きたい。
 昨日、森の酒井さんが素晴らしい、もう奇跡的なおかげを次々と頂かれるもんですから、もう有難うして、有難うしてこたえん訳です、親戚中、昨日は、車二台に分乗してから、親戚の方を連れて見えられました、もう、皆そげなおかげが頂けるなら、私も私もと云う訳でしょう、話を聞くと皆、様々な願い事があるわけですね、体の上に、商売の上に、または、娘さんが、女警察官の試験を受ける、それから、従兄弟さんか、弟さんかなんかでしょう、自動車運転の教官をする、自動車運転の先生ですね、それを実力をもってなさるけど、免許を持ってなか、5回も試験を受けたけど出来なさらん、それで、その6回目を明日受けなさる。
 もう、その親戚中の方が、皆様々な、その問題がある訳です、そのお届けをなさいました中に、その自動車の指導をする試験を受けると云う方が、こんな厚い本を持って見えましてね、もう度々出来んですからね、その中から出る訳でしょうけれども、どこを勉強しとったら良かろうかと云うので、本ば持って見えた。
 誰があんな事云ったか知らんけど、昔、小野先生が、博士号を取られる時の論文がそうでした、こう論文として見えた時に、神様がここの処はいけないとか、ここの処をもう一遍書き直せと云う事を頂いたんですよ、そんな話を聞いておられたんでしょうたいね、酒井さんが、そこで本を持って見えてから、ここのどこか調べたら、こんな厚い本です。
 1編.2編.3編.4編とず-っとこうなっとるのです、さあ、あんた難しい事云うねと云うて話でした事でしたけれども、まあ、とりわけ1編を特に勉強しといて、兎に角、白紙で行ったらいいですよと、云うご理解でした。
 そこで、昨日壮年部会の時、西岡先生が云ってました様に、白紙と云う事はどう云う事じゃろうかと、云うて、あちらへ行っていろいろ研修されたそうです、検討されたそうです、皆さんはどう思いますか。
 成るほど、神様はいろいろと示して下さる、ね、神様が示して下さる、だから、それを本気で行ずると云う事と同時に、白紙と云う事は、任せきると云う事だと思うです、白紙になる事はね、自分と云う者の色がない、もう白紙の状態。
 昨日、青年大会で百何十人か集まりました、ようあれだけ………まあ、本当熱心と云うか、役員の方達が、もう何日も何日も、検討、いろいろな寄り合いをしまして、そして、昨日の大会と云う事になったんですけども、本当に有難いと思いましたね、しかも、竹内先生の、素晴らしい講話を頂きまして、本当に有り難い、合楽的青年大会になったと思いますが。
 結局、神の存在と云う事ですかね、神様があるとか、無いとかと云う説明がやっぱり、難しく仲々合点がいかん、これも仲々合点がいかんのが当たり前ですけども、只、おかげを頂くと云う事だけでは、合点がいかない、そう云う事の中で神と云う事について、いろいろ質問があっとりましたが、本当の神様が判ると云う事はね、やっぱり、自分が白紙にならなければ判らんです、それだけでもいかんです。
 神様が示される事をよく守って、白紙にしていくところに、そこに絶対信、これは、絶対の神様が現われなさる、そこから、絶対信、神様を信ずると云う、それも出来る様になる。
 それを、三代金光様は、合楽に下さっておる、み教えの中に「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」と云う事になる、これに徹する事です、そこから、初めて本当の神様を知る事、判る事が出来るです。
 神様が示される自分の思いを通すのではなくて、昨日の、その酒井さんところの親戚の方に対する願いから、願う事に対しては、神様にお示し下さる、それから先は白紙で行けと、所謂、任せきった心で、右とか、左と云う事は、もう任せきった心で行けと、そこに、体験も生まれて来るし、そういう行き方なんです。
 そういう行き方が身について来るところに、初めて神様を、所謂、見神が出来る、神を見る事が出来る、神の声を聞く事が出来る、所謂、絶対信が生まれて来る訳ですね。
 今日の信心をすれば、誰でも神徳が受けられる事が出来る、その神徳と云うのは、あの世にも持って行かれ、この世にも残るもんだと、そう云うご神徳と云うのは、どういうところに現われるかと云うと、本当の神様任せになれれる人、しかも、自分が白紙になって、しかも、神様の示される事をそのまま忠実に守ってですよ、初めて本当の云うなら、白紙に映る紙の色が、こちらに映ってしまう。
 日々お参りをして、お取次ぎを頂いて、お願いをして、おかげを頂いて、神様が判ると云う段階から、段々その神様のお心任せになる、いつも自分を空しうしておる、自分をいつも白紙の状態に置いておる時に初めて、ご神徳家と云う人は、そういうおかげを受けた人ばっかりです。
 自分の云うなら、我意を通すとか、我情があるとか、我欲があるとか、そう云うものが、綺麗に取れて、白紙の状態になって、初めて、所謂、自分と云う者を空しうした事になります、空しうしておるところに、神様の示される事を、そのまま行ずるのですから、此処には神様そのものなんです、ね、その事になるでしょうが。
 自分は空しうしてしまっている、白紙の状態ですから、しかも、神様の云う通りを、示されるまにまに、自分を置いておくと云うのですから、神様がまあ可笑しな表現ですけど、神様が完全に乗り移ってしまいなさる、その姿をご神徳と受けた、または、ご神徳の世界と云うのは、そこから開かれて来るのです。
 だから、信心すれば誰でもと云う事は、兎に角、神様のお示しを受けると云う気になると云う事と、自分の我情我欲を出さないで、自分が白紙になると云う稽古だと云う事になります、ね、だから、一辺にはなれません、そこを、様々の処を通させて頂いて、自分の信心の段階と云うか、過程と云うものを一歩一歩確かに、確かなものにして行くと云う事。
 どうでも良いと云った様な事を云って、信心までどうでも良いと云う事になったら、もうおしまいです、どうでも良いと云う心は、そのまま確かに、白紙に近い心です、だから、その白紙に近い、いや白紙と云うても良いかもしれません、それから先はですよ、どうでも良いと云う白紙の心から、神様の云われる事に忠実にならなければ、駄目なんです。
 どうでも良いと云うて信心まで、どうでも良いと、投げた様な事を云うたり、実際に行わなかったりしたんでは、これはもう愈々つまらんですよね、どうでも良いと云う心で、そして、神様のお示しに従うと、と云うた時に初めてどうでも良いと云う心に、神様がどうにでもして下さる働きが生まれて来る、それを、ご神徳と云う、云うならば、夢にも思わなかった世界が開けて来る訳です。
 だから、皆さんも断片的には神様任せと云う、その時には断片的に、自分という者が白紙になっている状態ですけども、すぐ、その次の瞬間には、自分が出ております、けれども、神様任せになると云う事が、この様に有り難いんだ、神様のお示し通りにする事が、こんなにおかげを頂く事なんだと云う、その体験を積んだ上にも積ませて頂いて、初めてその辺りがすっきりして来るのではないでしょうか、ね。
 昨夜、私はお夢を頂いたんです、ある所へやらせて頂いたら、そこの娘さんか、娘さん小さい赤ちゃん、生まれたばかりの赤ちゃんもあります、けども肺病かなにかで、もう骸骨の様に瘠せ細って、床の中に入っておられて、そして、その横に赤ちゃんも寝せてあるのです、それで、そのそこのお母さんという人でしょうか、「先生
私の方には、こんなのがあります」と云うて、先祖代々からあるのでしょうね、大変な云うなら、骨董趣味の人ならもう飛び付いて、ああ良いなと思うたり、欲しいなと思うたりする様な物が、こちらの部屋に一杯、骨董品のそれは見事な物が一杯置いてあるのです。
 ところが、私は、赤ん坊を抱いて、今日も難しかりそうにして、もうお母さんは難かしかと諦めてある様です、ね、だから、私が行っとるけれども、お願いをされると云う事もないのです、けども、その所謂、私もあげな骨董類が大変好きですから、けれども、骨董を見ろうという気も起こらないし、良いなとも思わないし、私の心の中は、そこに寝ておるその病人の事を一生懸命ご祈念してから、その、涙を流しておるお夢でした。
 もう親ですら、見放しておるという病人です、私は思うのにです、自分の信心の程度、度合いと云うものがです、自分のどんなに好きなものよりも、人が助かる事の方に、あの焦点が置かれる様な、ね、信心と云うものが、自分の信心の一つのバロメ-タ-になるのです。 自分が例えば、ここでも、沢山人の事を願われる事があります、が、どれだけ切実に、その赤の他人の、その難儀を見て見逃しに出来ない思いが、心の中にあるかと云う事なんです。
 私は、その夢を頂き終わってから、もう、本当に、私はいつも申します様に、成るほどここにも様々な美術品と思われる様な、また得難い品が沢山あります、それが、破損したとか、壊れたとか云うて、私は一遍でも、そりゃあ、あんたがろくそなかけん、あんたがくずしたったいとか、一遍だって云うたり、思うたりした事はないです。
 本当に好きですけど、そりゃ惜しかったのちゃ云わんです、心に思わないです不思議に、どんなに、好きなものであっても、どんなに、例えば、芝居を見よっても、信者の難儀な問題なら難儀な問題を、お取次ぎしよる最中なんかだったら、如何に芝居を見よっても、芝居がいっちょん目に映らんです、私の頭の中は、誰々さんの事ばっかりです。
 ここにも、自分の信心の程度、自分はこれ位、神様に占領されておる自分というものを、神様が、変な云い方ですけども、乗り移ってござる私というものを感ずるです。
 神様は氏子可愛いいの一念、助けずにはおかんと云う一念、そう云う助かって貰いたいの一念が、私の心の中を占領しておると云う事なんです、そこになら、私が、如何に白紙の状態でいつもあるかと、いつも私が、神様任せであるか、我情我欲を取り払うておるか、、そして、神様が、右と仰有れば右、左と仰有れば左、神様のお示しのまにまに、私が動いておる事を感じるです。
 だから、その過程においてです、只自分の事と、下り坂は急がん者は居らんと云われる様に、誰だって、自分の事は一生懸命願います、なら、私でも願います、最近もう本当に若さを頂きたい、本当の健康を頂きたい、もう、只一年でも、お役に立ちたいの一念で願っております。
 神様は、それを示して下さったから、尚更であります、若返りを願え、健康を願えと、とりわけ、五つの願いの中に、健康もありゃ、家庭円満もありますけれども、それを、願うた他に、また、改めて自分自身の事を願います、だから、そう云う願いと共にです、そんなら、人が助かって行くと云う事の為にも、どの位の情熱を、お互いが持っておるかと云う事です。
 そう云う信心が段々育って行くうちにです、例えば、私の修行中に、難儀な人のどこどこにと云うて、話を聞いたら、もうどんなに暑かろうが、どんなに遠かろうが、しかも、その頃は、自転車もございませんでしたから、テクテクと歩いて、二里でも、三里でも訪ねて行って、お話をせねばおられなかった様なものがです、その頃の、私の信心の程度であったと思うのです。
 自分がおかげを頂く、先ずは自分が助からねばいけないけど、自分が助かって行けば、助かって行く程、その思いがつのって来なければ、信心が育って行きよる、云わばお徳を受ける道を歩いておる、云わば、信心と云う事では、信心とは信ずる心が先ず生まれて、真心にならせて貰うて、神心になって行くと云う事です。
 神心とは、だがそう云う一つの過程を、初めから、だから断片的には、どうにも仕様のないから、親先生の云われる通りでありますのが、皆さんの神様任せであり、親先生任せと云うのではないでしょうか。
 何もかも任せきれている事が、出来ている筈はないけども、そう云う断片的な任せきると云う行き方、任せると云う事を同時に、神の云う事を、神が示す事を聞いて、初めて本当なものになる訳なのです。
 どうでも良い、素晴らしい心の状態です、願うとる事が右になろうが、左になろうが、どうでも良いと云うのですから、もうそりゃ、ある意味において助かっとるです、けど、そんなら、信心までどうでも良いと云うのは、親先生の云う事を聞かんと云う事は、これは、云うならば信心までがどうでも良いと云う事になったんでは、おかげもどうでも良いと云う事になって来る事は当然の事なんです。
 試験の時に、この本からでる、何頁のどこを勉強しとったらよかろうか、勉強しとる、けれども愈々勉強する段になって確かに覚えとったばってんコロッと忘れとったらどげんなる、それよりも、そう云う勉強と同時に白紙になって行くと云う、云わば、どうでも良いと云う心になって行くところにです、云うならば、なんとも云えん一つのゆとりが生まれて来ます。
 私は、今日今朝からそのゆとりと云うものが、自分自身に実感させて頂いて、ご神前に出らせて頂いたんですけども、ゆとりと云うものは何と云う素晴らしい事だろうかと思うですね、今日は起きたのが、いつもより3時半過ぎに起きましたから、14.5分間私の方の部屋で、ゆとりがある訳です、本当にそのゆとりがあると云う事は素晴らしい事です。
 私が、いつも云う様に一宿一飯の恩義で命をかける、これは、遊侠の世界です、そう云う義理人情がある訳です、だから、私共が一宿一飯どころではない、本当にこの結構な部屋に、住まわせて頂いて、それこそ、このふわふわした布団に寝ませて貰うて、おかげを頂いておると云う事と、丁度、一宿一飯の者が大変お世話になりましたと云うて、家を出るであろう様にです、部屋でその事を毎日拝んで、こちらに出て来るんですけれども、それが、今日は14.5分間もゆとりがありますから、心行くまでお礼が云えれる、こちらに出てまいりましても、ゆとりと云うか、もう何とも云えん、ゆとりがあると云う事は素晴らしいですね、これはもう心行の前提です、又は、心行させて頂く者の、結果にも繋がる事です、ゆとりと云う事は………。
 そこに、本当の完全な心行が出来ると思うのです、先日からの様にゆとりの無い心行は、ほんの何分かの間であるが、アラッと云う間に失敗する様な事がありますね、氏子が神様まかせなら、神様が氏子まかせになると仰せられますから、神様が私共まかせになって下さると云う働きは、もう大変な働きなんです、そう云う働きが受けられるおかげを、神徳の世界と云うのです、なら、そう云うおかげは、誰でも受けられる、我情我欲を取れと仰有る、だから、我情我欲を取る事が信心である、そして、神様の仰せ、神様のお示しを、忠実に、それを素直に頂いて、守ると云う行き方、それが、信心である。
 だから、そう云う信心、信心から、今度は次の神心が生まれて来てです、自分でも不思議な、自分の好きでたまらん様な物が、そこにずらりと並べてあっても、見向きもしようごとない、好いなとも思わない、ここに横たわって寝て、今おも知れん命の人の姿を見たら、もうその人の事が祈らずにおられない、それが、神心だと私は思うんです。
 今朝、お夢の中に感じた事は、今日頂きます、神と云う字は、示すと書いて申すと書いてある、神様が示し申される事、それを白紙で受けると云う事である、そこには白紙で映る神様が、そこに云わば乗り移ってしまいなさると云う事である、それを神心と云うてある。
 だから、信心、真心、神心と云う、神心のところまでを、進めて行って初めて、神徳と云う事である、だから、信心しております、真心で一生懸命がんばります、と云うところは、一つの信心の過程なんです、だから、皆さんはどこにあるだろうか、神様どの程度に信じて、修行してあるだろうか、皆さんが、本当に真心になって、どれだけ日常生活の上で、云うならば、嘘の無い生活が出来ておるだろうか、所謂、白紙で、そして、神様のお示しで、素直にそれを頂き、守るところに、これは信ずるなと云うても、神様をそこに判り、神様を信ずる事のできれる神様の、絶対を判らせて貰う行き方を、今日は聞いて頂いたですね。   どうぞ。